前回の記事で涙を堪えて一人で静かに泣いていた話をした。
低学年の時にはもう一人でこっそり泣いていた。
『人前では涙を流してはいけない』
時代や地域性もあったのかもしれないが、うちの両親は子供が泣く事を良しとしなかった。
家庭環境に加えて、もともと素直な性格の子供だったのだろう。
私は人前で泣かなかった。
感情を抑えた。
何があっても、どんなひどい言動で傷つけられても涙を見せずに堪えた。
いつしか母に「泣いたことないよね、コワイ」「あんたは冷たい子供だ」「血も涙もない」「人の心がない」と言われるようになった。
なぜだろうと不思議に思ったが、そんな疑問は母に言えなかった。
母が気に食わないことを私がしてしまったりするたびに言われたが、母の方がよっぽど血も涙もなく、人の心がないのではないかと今は思う。
しかし素直だった私は『私が冷たい子だからお母さんは私を怒るのか』『私が人に優しくしないから学校で意地悪をされるんだ』と考えた。
私は自分より相手の気持ちを優先した。
とにかく人に合わせた。
『嫌わないでほしい。
寂しい。悲しい。怖い。』
これ以上周りの人たちに見捨てられたらと思うと毎日不安で不安でどうしようもなかった。
理不尽だ。納得出来ないと思う気持ちは少しぐらいあったと思うが、家では弟や母を最優先に考え、学校でも相手に全て合わせるようにした。
欲しいもの、やりたいこと、自分の考えを伝えること。たくさんのことを諦めた。
諦めることが当たり前。でも母からの評価は変わらなかった。
理由はそれが当たり前だから。女なんて育てても一文の得にもならないと言っていた。
何年もそんな生活を送っていたが事態はよくならず、高学年に向かうにつれて悪化していった。
私は主体性がなく、自己主張することが苦手だった。
私が意見を言ったらみんなは嫌がるかもしれないと学校でもとても静かに過ごすことが増えた。
家でも学校でも居場所はない。
どちらもとても疲れる場所で、怖いところだった。
誰かと一緒にいても疲れることが多かった。寂しいと感じることもたくさんあった。同級生に優しい子もいたが、他の意地悪な子たちの目が怖かった。
一人でいても母や同級生に言われた悲しい言葉が頭の中を駆け巡り、叫びだしたくなった。
3年生ぐらいまでは勉強も割と出来た。
しかし、教科書を読んでも頭がボーッとし文章の意味が理解しづらくなっていった。
いつしか早く死にたいと思うようになり、それが徐々に死にたいと毎日思うようになっていった。
勉強はどうでも良くなった。将来の夢はあったのだが、もうすぐ死ぬから意味のないものだと思っていた。
それがどうやって死のうかになり、自殺でも事故に見える死に方はないか等を考える小学生だった。
中学時代は何となく毎日を過ごし、どうしたら私は人の役に立てたうえで死のうかと考えていた。
中学時代は辛い事があっても涙を堪えることがなくなった。
その頃の私はどうでも良いという気持ちが大きかった。
20歳すぎぐらいまでほどほどに生きて、もういいやと思ったら死のうと思っていた。
そんな暗く無気力な自分が高校生になってからだ。
見て見ぬふりをする大人ばかりではないと知った。
真剣に私に向き合ってくれる、私の話を聞いて受け止めてくれる人は世の中にたくさんいたのだ。
誰かと比較せず、私の良いとことを見つけて褒めてくれる人もいた。
話してて楽しいと感じる友達にも出会えた。
『世の中は嫌な人間だらけだ。家族以外の人間を信じてはいけない。』と小さいころからずっと母が私に言い聞かせてきた。
それがなんだ!外の世界はこんなに素敵な所だったのか!と衝撃だった。
いつしか幼少期の記憶は忘れ、何人も友人が出来た。
とてもうれしかった。
相変わらず生きにくさはあるが、高校時代で先生方、友達、バイト先の人。たくさんの人たちに出会ったおかげで世の中は明るいんだと知れたことが幸いだった。
うつ病になったり、自分の精神状態が不安定でどんどん内向的になってしまったが今一人じゃないということがどれだけ心強いことか。
自分の気持ちを何十年もないがしろにし、諦め癖は十八番。
自分の半生を振り返り課題が見えてきて、その課題をクリアすべくもがいていたらもう40代。
もっと若い頃に何とかしたかったなぁ。
こんなお母さんで、子供たちに申し訳ない。
夫にも苦労をかけて申し訳ない。
前向きに自分らしく生きれるように自分の課題から逃げずに頑張る。
勉強したり、カウンセリング受けたり、こうして記録をして気持ちを整理したり。
とても辛いと感じるし、怒りもたくさんあるけど全部自分で受け止めないと前に進めないもんな。
夫と子供たちよ、ママ頑張るからね。
いつも笑顔をありがとう。
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