お盆なので父の事を。
私の父は3年前に亡くなっている。
私は小さいころから父が大好きだった。
頼りないところもあるが、いつも穏やかな人だった。
食べることが大好きで、何を食べても「美味しいなぁ」とニコニコして食べていた。
私が働くようになってからは、時々母にビールを父には甘いものをお土産に買って帰り、父と一緒にお土産を食べた。母には大好きなビールを買った。父と私は体質的にお酒に弱いので、私も父も大好きな甘いものにした。弟は高校卒業してから実家を離れていたし、祖父も亡くなり祖母は途中で施設に入った。
父は私が小学校高学年の頃から不安定になり、その後入院と自宅療養を経て仕事復帰した。1年前からレビー小体型認知症を患っていた。
それからは興奮しやすくなり、母を怒鳴ったりしていたそうだ。高血圧と診断されて血圧を下げる薬も内服していた。
お酒の大好きな母は父に楽しみが必要だと考えたらしく、毎日父にお酒を勧めていたらしい。コップ1杯で顔が真っ赤になってしまう父だったが母と毎晩晩酌をしていたと後から知った。
父が亡くなったのは急だった。夜遅くに母から電話があった。父が呼吸と意識がなくて救急車で運ばれ、今治療中だという連絡だった。母の声の後ろにモニターの音が聞こえていて、異常を知らせるアラームの音が鳴り響いていた。
その音を聞き、すぐにその病院に向かうと母に告げて電話を切った。
夫に父が倒れたことを話した。「たぶんお父さんはもう助からない。家族みんなでお父さんに会いに行こう」と夫に話し、寝ている子供たちを起こしすぐに家を出発した。
その時は夫の仕事の都合で高速を使って実家から3時間の距離に住んでいた。
道中母から父が亡くなったと連絡が来た。
とても悲しかったがあまり涙はでなかった。
実家に帰り、父と対面した。
身体はもう冷たくなっていたが、寝ているようにしか見えなかった。少し微笑んでいるようにも見えた。その穏やかな顔を見ると苦しんで死んでいったのではないのかもしれないと思い、それだけが良かったと思えた。
父が骨になるまでは何度も父の顔を見ては泣いた。
子供が大好きな父は孫たちの成長を楽しみにしていた。
もう孫の成長を一緒に見ることは出来ないな。
もうお父さんには会えないのか。
お父さんはよく謝っていたな。
私が中学生の時にお父さん入院したな。それからはお父さん、お母さんの言いなりになってたな。私同様サンドバックになってたな。
お父さんの人生って幸せだったのかな。
たくさん父を思った。
私と夫が結婚して初めての父の日に、私と夫で父に帽子をあげた。
父は私たちが帰省するたびに
「あひるからのプレゼントも嬉しいけど、あひると夫くんからのプレゼントっていうのがすごくうれしいんだ。どうもありがとうね」と私と夫に何度もお礼を言っていた。
「お気に入りの帽子だよ」「散歩に行く時に必ず被るんだよ」と嬉しそうに話していた。
「こんなに喜んでくれるなんて」と夫は驚いていた。
その帽子は父の棺桶に入れた。
お通夜にはいろんな人が来てくれた。父もきっとみんなに会えて嬉しかっただろう。
お通夜の夜は斎場に泊まった。次の日に葬儀をし、父を火葬する。
あぁ。お父さんの顔が見れなくなっちゃう。お父さんに触れなくなっちゃう。と何度も泣いては父の眠る祭壇の前に行き、父に触れて顔を見てはまた泣いた。そのたびに夫が付き添ってくれた。ありがたかった。
父はたぶん昔から私が母からひどい扱いをされていることに気付いていた。
だから、子供の頃、父がいないとき母や祖母に何か言われていないか。困っていないかとしきりに確認していたのだろう。
だが、私は言ったらますますひどい目に合うと思い、父には言わなかった。
父に一度だけ「お母さんと離婚してほしい。私はお父さんといる。」と子供の頃言ったことがある。どうしても限界で母から離れたかったからだ。
だが父は離婚せず、生涯母といた。
おそらく私が成人してからだと思う。父は「解消無しのお父さんが悪いんだ。だからお母さんのことは恨まないで」と時々言っていた。
私が一方的に母に八つ当たりされたり、私のお金を母が使いこんだりしていた時だと思う。
父がもっとしっかりした人だったら、私はここまで酷い扱いを受けなかったのかもしれないと時々考えた。
しかし、そんなことを考える自分が許せなかった。
私を大切にしてくれた父に対してマイナスの感情を持つことなどいけないことだ。私がこんな冷たい人間だから母に意地悪されたのだとさえ思うこともあった。
父が亡くなってから、私の家には父の小さめの遺影を飾り、命日やお彼岸やお盆などの節目にお花やお供えをしているがここ数カ月は出来ていない。
父にも怒りが沸きあがるようになったからだ。
父のことは大好きだった。いまでも感謝もしている。
でも日に日に腹がたつ。
先週ぐらいから大好きだった遺影の笑顔すら腹がたった。
「お父さんがもっとしっかり守ってくれたら私はこんな苦労をしなくて済んだ。私の人生を返せ。私はあんたら夫婦を許さない。」と父の写真に怒って言った。
父の笑顔を見たら申し訳なく思い、写真に謝ろうとしたが、続いて出た言葉は「お母さんを恨まないで、その代わりお父さんを恨んでと言ったね。お父さんの願いを私は聞き入れない。私は二人を許さないし、恨んでるから。」だった。
ここまで父にきつい言葉を言ったことはなかった。
父にはとにかく感謝していたから。
いい年したおばさんがいつまでも両親のせいにするのは責任転嫁だとも思う。自分が選択して生きてきた結果を親のせいにしていると思う。
だが、ずっとこうして生きてきて。自分を変えたいとがむしゃらに頑張ってもちっともうまくいかない。
気づけばたくさんの時間やお金や健康や人生の楽しみを失い、喪失感や虚無感に襲われる。
なぜ自分はこんなふうにしか生きられないのかと自分自身を責めてまた自分を追いつめる。
もうその繰り返しに疲れてしまい、明るい未来が見出せないんだ。
私自身だけでも辛いのに、夫と子供たちの人生にも大きく影響することだと思うとますます腸が煮えくり返る思いだ。
父へ今ある怒りの感情は自分が抑えていたものなんだろうなと思う。
その感情に自分が向き合うんだ。
辛いな。父に申し訳ない。
お父さん。今回のお盆は実家に帰らないよ。お父さんにお花もあげられないし、お供えものもあげられない。どうしてもそんな気持ちになれないんだ。
こんな娘でごめんね。
たくさん自分の中にある感情と向き合い、寄り添っていかねば。
複雑性PTSD、順調だと思っていても感情が振り子みたいで行ったり来たり。やはり難しいものだとつくづく思います。
でも諦めずに今出来ることを頑張ってやっていこうと思います。
暗い話で、しかも読みづらくて申し訳ないです。
長くなりましたが読んでいただいてありがとうございます。
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